日枝大神社発起
皇紀一六〇八年、天暦二年(戌申)比叡山(滋賀県大津市)、
日吉大社より分霊を勧請。天暦二年は西暦九四八年。
平成二十五年で一〇六五年を迎えました。
現存するもので一番古いものはこの水石です。この水石は流石で、享保十九年(申寅)西暦一七三四年に氏子により奉納されたものです。今から280年程前のものと考えられています。
御祭神
大山咋命(おおやまくいのみこと)。世に山王とも言われ、別名は山末之大神。山末とは山裾(山麓)を意味し、大昔から比叡山に鎮座し、地主神と言われています。
建速素戔嗚命(たけはやすさのおのみこと)を御祖父とし、御父は大歳神、御母は天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)です。
御功績は、山城丹波地方(現在の近畿地方、京都府の大部分と兵庫県の一部)を開拓されたことで、特に大堰川(おおいがわ、現在の保津川)を治め、永く水害を除き人々の福祉を進められました。
本殿の社に御一緒に祀られている神様
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
大山津見命(おおやまつみのみこと)
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
大国主之命(おおくにぬしのみこと)
豊受姫命(とようけびめのみこと)
末社として、八王子社、稲荷神社、浅間神社、神明社、大鷲神社が合祀されております。
風土記
大日本地誌大系(第七ノ巻)新編武蔵国風土記稿にはこの様に書かれています。
「山王社」御朱印地拾石、村の中央にあり、本社宮造り九尺二間、社殿三間、二間、神体丸き石なり円周八、九寸別にかわりたる石とも見えず士人伝古の神体は黄金をもって作れる扇子の開きたる日月星辰を錐したるものなりと、いつの頃か賊の手に奪われたり、後その形を真鍮にて作れる扇子と云えるもの近来のものにてはなく古色なり(不明)
例祭年々四月中の申の日なり、隣村下新田村、菅沢村、当村全て三村の鎮守たるにより、祭りの頃は此の三村の者ども出て執り行へり、中に神輿の前後を馬上にて守護するもの十二にんなり、村内を廻りて下新田村、菅沢村を渡して夫より社地に還れり、此の山王社はもと比叡山坂本山王権現の遙拝のため設けることとぞ、故に比叡の宮など云へるものあり、是もその始めを知らず、口碑に傳へるのみ
沿革
日枝大神社は村上天皇の御世、天暦二年三月中日、比叡山坂本山王権現である日吉大社の御分霊を勧請したもので、山王権現と号し、比叡宮と称しました。
始めは、村(小田村)の西隅に社殿がありましたが、いつの頃からか村の中央現今の場所に遷座(せんざ)されました。旧跡地には、有名な銀杏の御神木があり、大正時代までは残っていたとの事ですが、今はありません。
江戸幕府の頃、御朱印地拾石(社寺に朱印状をもって下符した土地)があり、隣村下新田村(現在の浅田町)、菅沢村(現在の鶴見区菅沢町)等の総鎮守(氏神様)でした。
例大祭は四月の申の日、御輿渡御の際は村内旧家十二人がいずれも馬に乗り、警個供奉(警戒しお供をする)をして村内(三ヶ村)を巡幸(じゅんこう)しました。その行列は頗る古風を極めた物と言われます。
王政維新(明治)までは、真言宗円能院(向かいのお寺)が別当職としてお守りしていました。明治六年十二月に村社になり、社号も日枝大神社と改められ、例大祭も五月十五日と定められました。
明治42年3月14日 浅間神社、杉山神社、神明社、下新田稲荷神社等を合祀
大正10年4月4日 神饌幣帛(へいはく)料供進する神社
(国または市町村から産物を奉献する)に指定されました。
昭和20年4月15日夜半 太平洋戦争の戦禍により、氏子の九割と供に、
大空襲の下で一夜にして焼失してしまいました。
昭和24年5月14日 本殿を再建
昭和25年5月 仮の拝殿と仮の社務所を建てる
昭和27年5月14日 神楽殿を再建
昭和31年4月15日 御社殿が完成し、5月18日19日に奉祝祭を行う。
昭和37年4月15日 社務所が完成
昭和45年2月7日夜半 心ない者のいたずらから神楽殿が全焼、
同年5月15日に再建
昭和50年より、神社整備に一環として授与所(札所)建立
昭和53年 御由緒掲載処を設置
昭和54年 大灯籠一対を奉納する事ができました。
昭和57年4月15日 氏子中の奉賛により、宮神輿並びに神輿庫が再建
5月大祭当日 宮御輿渡御全氏子地域を巡幸、
40年振りの祭事とあって氏子民の熱狂的歓迎を受け
盛況裡に行われた。
平成3年3月31日 現参集殿兼社務所を氏子中の御奉賛並びに、
神社拠出金により完成。
盛大に竣工式典が執り行われました。